「新しいことをやれ」の落とし穴
「今期は新しいことにも挑戦してほしい」
期初の1on1でそう言われた経験は、多くの人にあるだろう。上司も本気でそう思っているし、自分もやりたい気持ちはある。でも、気づけば期末。結局、日々の業務をこなすだけで終わってしまった——。
これはよくある話だ。そして、この構造には理由がある。「新しいこと」と「既存の業務」が別物として設定されているからだ。別々のものとして扱う限り、緊急度の高い既存業務が勝つのは当然である。
「両利き」という視点
経営学に「両利きの経営(Ambidexterity)」という概念がある。組織には2つのモードが必要だという話だ。
- 深化(Exploitation):既存の事業を磨き、効率を上げる
- 探索(Exploration):新しい可能性を試し、学ぶ
この概念はしばしば「探索部門と深化部門を分けよ」という組織設計論として語られる。新規事業部を作る、イノベーションラボを設置する、といった話だ。
でも、現場で働いていると、こう思わないだろうか。「そんな大げさな話じゃなくて、普段の仕事の中でできることはないのか?」と。
私は最近、一つの経験を通じて、探索と深化は必ずしも二者択一ではないと感じるようになった。
似た案件で、あえて新しい技術を試す
あるシステム開発の案件があった。別のお客さん向けだが、以前やったものとよく似た内容だ。正直なところ、前回とほぼ同じ構成でも動く。納期もコストも、それが一番安全なのはわかっていた。
でも、あえて全体の2〜3割程度に新しい技術を取り入れてみた。
なぜその部分を選んだか。理由は「どうせそこは手探りだったから」だ。前回の構成でも、その部分はテストや検証のやり方が確立していなかった。つまり、従来のやり方を踏襲しても不確実性は残る。それなら、新しいことを試すリスクが相対的に低い。
もう一つの判断基準は「最悪、戻れるか」だった。その部分だけ従来のやり方に切り替えても、全体は動く。そういう設計にしておいた。全体を賭けるのではなく、撤退可能な範囲で試す。
結果はどうだったか。想定通りにいかない部分はあった。新しい技術特有のハマりどころがあり、一時的にスケジュールが押した。ただ、致命傷にはならなかった。
若手の変化
予想外だったのは、若手の変化だ。
新しい技術を入れると決めたとき、その部分の調査を若手に任せた。すると、自分で調べて、自分で判断して、実務に適用するというプロセスを経験できた。明らかにイキイキしていた。
これが「前回と同じ構成で」だったら、どうだっただろう。おそらく「言われた通りにやる」仕事になっていた。深化だけを続けていると、効率は上がるが、人が育つ機会は減る。探索の要素を入れることで、意図せず育成の機会も生まれた。
「どこで探索するか」の判断基準
この経験から、探索と深化を「兼ねる」ときの判断基準が見えてきた。
1. どうせ不確実な部分を狙う
従来のやり方でも検証が確立していない部分は、新しいことを試すコストが相対的に低い。「ここは前回もうまくいった」という部分を変えるのはリスクが高い。でも「ここは前回も手探りだった」という部分なら、試す余地がある。
2. 最悪、戻れる設計にしておく
探索部分がうまくいかなかったとき、従来のやり方に切り替えられるか。それができるなら、致命傷にはならない。
ただし、これは偶然そうなるわけではない。上司やリーダーの仕事として、全体設計の段階でモジュール化しておくことが前提になる。探索する部分と、安定させる部分を切り離しておく。そうすれば、一部で失敗しても全体は守れるし、若手にも任せやすくなる。「探索していいよ」と許可するだけでなく、探索が可能になる構造を作っておく。これがリーダーの仕事だと思う。
3. 全体の2〜3割に留める
探索の比率が高すぎると、プロジェクト全体がリスクを抱える。今回は2〜3割程度だった。深化で全体の安定を保ちつつ、一部で探索する。このバランスが現実的だと感じた。
月曜から試せるヒント
1. 次の案件で「どうせ手探りな部分」を探す
テストが確立していない、前回もうまくいくか不安だった、毎回やり方が違う——そういう部分がないか見てみる。そこが探索の候補地だ。
2. 「切り離せる設計」を意識する
探索を許可するだけでは足りない。全体設計の段階で、「ここは独立して動かせる」という構造を作っておく。それが探索を可能にする土台になる。
二者択一から抜け出す
両利きの経営は、しばしば「探索か深化か」という二項対立で語られる。でも、現場レベルでは、もう少し柔軟に考えられるのではないか。
既存の仕事の中に、探索の余地を見つける。深化で安定を保ちながら、一部で新しいことを試す。それが、日常の中で「両利き」を実践する一つの方法だと思う。
あなたの次の案件で、「どうせ手探りな部分」はどこだろうか。そしてそこを、切り離せる設計にできているだろうか。
もう少し深く知りたい人へ
「両利きの経営」は、スタンフォード大学のチャールズ・オライリーとハーバード大学のマイケル・タッシュマンが体系化した概念だ。彼らは長期的に成功する企業の条件として、探索と深化の両立を挙げている。
彼らの議論では「構造的分離」——探索を担う部門を既存事業から切り離すこと——が強調されることが多い。しかし近年の研究では、個人やチームレベルでの「文脈的両利き(Contextual Ambidexterity)」も注目されている。これは、同じ人・同じチームが状況に応じて探索と深化を切り替えるアプローチだ。本記事で紹介した「モジュール化して一部で探索する」方法は、この文脈的両利きをプロジェクト設計に応用した例と言える。
また、若手が「自分で調べて適用する」ことでイキイキしていたという話は、自己決定理論(Self-Determination Theory)で説明できる。人は「自律性(自分で決められる)」「有能感(できるようになる)」「関係性(認められる)」の3つが満たされると内発的に動機づけられる。探索の機会は、特に自律性と有能感を高める効果がある。
参考文献
- 『両利きの経営——「二兎を追う」戦略が未来を切り拓く』(原題:Lead and Disrupt: How to Solve the Innovator’s Dilemma, 2016)チャールズ・A・オライリー、マイケル・L・タッシュマン著
- Gibson, C. B., & Birkinshaw, J. (2004). The Antecedents, Consequences, and Mediating Role of Organizational Ambidexterity. Academy of Management Journal, 47(2), 209-226.
- Ryan, R. M., & Deci, E. L. (2000). Self-Determination Theory and the Facilitation of Intrinsic Motivation, Social Development, and Well-Being. American Psychologist, 55(1), 68-78.