経験がある仕事は特定の人に集まる
技術的な経験がある分野の仕事は、経験者に集まりやすい。技術だけではない。社内事情や申請の手続きなど、過去に一度やったことがあると、次も「この人に聞こう」となる。特に新しいことを始めるときは、経験者に声がかかる。
頼まれる側としては、悪い気はしない。自分の経験が価値になっていると感じられる。頼られている実感がある。若手であれば、それが今後の仕事の軸になる可能性もある。得意な領域を持つこと自体は悪いことではない。
ただ、同じ領域の仕事ばかり続くと、そのやり方に凝り固まってしまう。別の領域に手を出す機会がなくなる。スキルの幅は、意識しないと広がらない。
コンピテンシー・トラップ
経営学者のジェームズ・マーチは、組織が得意なことを磨き続けるうちに、新しい能力を獲得する機会を失う現象を「コンピテンシー・トラップ」と呼んだ。
組織の話だが、個人のレベルでも同じことが起きる。得意なことをやると成果が出る。成果が出ると評価される。評価されるとさらに同じ仕事が集まる。このループが回っている間、本人は順調に見える。でも、新しい領域に挑戦する機会は減り続けている。
問題が表面化するのは、環境が変わったときだ。技術のトレンドが変わる、組織の方針が変わる、自分の役割が変わる。そのとき、得意な一つの領域しか持っていないと、対応できない。
頼られる嬉しさが判断を曇らせる
厄介なのは、コンピテンシー・トラップが本人にとって心地いいことだ。
頼られて嬉しい。成果を出せる。評価される。短期的には、すべてがうまくいっている。「この領域ばかりやっている」と気づいても、頼まれれば引き受けてしまう。断る理由がない。
上司側も同じだ。経験者に頼むのが効率的だ。新しい人に任せると時間がかかる。失敗のリスクもある。「この人に頼めば早い」という判断は、一つひとつは合理的だ。でも、それが続くと部下のスキルの幅が広がらない。
あえて苦手な人に頼むのは難しい
対策として「苦手そうな人にあえて任せる」という考え方がある。ただ、これは現実には難しい。本人のモチベーションを下げたくないし、品質のリスクもある。急に苦手な領域を一人で任されても、成長より挫折になる可能性が高い。
自分がよく取る方法は、経験者と一緒にチームを組ませることだ。メインの担当は経験者だが、不慣れな人もサブで入れる。一緒にやることで、少しずつ領域を広げてもらう。一人で全部背負わせるのではなく、経験者の背中を見ながら学ぶ形だ。
これなら本人のモチベーションも下がらない。経験者の方も、自分の知識を言語化する機会になる。苦手な領域も、いきなり一人で任されるより、経験者の背中を見ながら学ぶ方が入りやすい。
頼む側の意図を伝える
上司として頼むとき、単に「その仕事をやってほしい」だけで依頼しているわけではないことが多い。経験者に頼むのは、その仕事を回してもらうだけでなく、業務の標準化、技術的な改善、他のメンバーへの展開まで含めて期待している。
ただ、その意図が本人に伝わっていないことがある。本人は「また同じ領域の仕事が来た」と感じている。依頼された範囲だけをこなして終わる。結果として、本来は成長の機会になるはずの依頼が、同じことの繰り返しに見えてしまう。
「この仕事を次は他の人にも任せられるようにしてほしい」「このやり方を標準化してほしい」と、依頼の意図を具体的に伝えることが大事だと思う。同じ仕事でも、受け取る側の認識が変われば、取り組み方が変わる。単純な繰り返しではなく、標準化や展開という新しい領域への挑戦になる。
同じ仕事が繰り返されるとき、伸びる方向は二つある。一つは技術の軸を広げるか深めること。もう一つは、適用範囲を広げること——標準化する、他の人に展開する、後進を育てる。少なくともどちらかができていれば、繰り返しにはならない。どちらもない状態が続くと、それがコンピテンシー・トラップだ。
得意な人自身の意識も大事
一方で、得意な人自身が「この領域ばかりでいいのか」と意識することも大事だ。頼まれ続けると、断りにくい。でも、すべての依頼を受け続けると、自分のスキルの幅は広がらない。
すべてを断る必要はない。でも、同じ領域の仕事が続いているなら、次に新しい依頼が来たときに手を挙げる。あるいは、上司に「次は別の領域にも挑戦したい」と伝える。頼られる嬉しさに安住しないことだ。
得意な領域を持つことは強みだ。でも、得意しか持たないことは弱みになる。長く働くなら、一つの軸に加えて、もう一つ二つの領域を持っておく方がいい。
あなたのチームで「いつもあの人に頼むタスク」はないだろうか。
そして、自分自身が「いつも頼まれる領域」に安住していないだろうか。
1. 得意なことばかり続くと、スキルの幅が広がらない
頼られて嬉しい、成果が出る、評価される。短期的には順調に見えるが、新しい領域に挑戦する機会は減り続けている。環境が変わったときに対応できなくなる。
2. 「軸の拡張」か「適用範囲の拡張」のどちらかを進める
同じ仕事でも、技術の軸を広げる/深めるか、標準化や他者への展開を進めるか、どちらかができていれば繰り返しにはならない。上司は依頼の意図を具体的に伝え、得意な人自身も「次は別の領域に」と手を挙げる意識を持つ。
もう少し深く知りたい人へ
コンピテンシー・トラップは、ジェームズ・マーチが1991年の論文「Exploration and Exploitation in Organizational Learning」で提唱した概念だ。マーチは組織の学習を「探索(Exploration)」と「深化(Exploitation)」に分け、どちらかに偏ると組織の長期的な適応力が失われると論じた。
深化は既存の能力を磨くこと、探索は新しい能力を試すことだ。短期的には深化の方が成果が出やすい。だから組織は深化に偏りがちになる。これがコンピテンシー・トラップだ。
個人レベルでも同じ構造が起きる。得意な領域で成果を出すこと(深化)は、新しい領域を試すこと(探索)よりも短期的には効率的だ。しかし、深化だけを続けていると、環境変化への適応力が落ちる。両利きの経営という考え方は、組織レベルでこの問題を扱ったものだが、個人のキャリアにも同じ発想が応用できる。
本文で触れた「経験者とチームで組ませる」アプローチは、状況的学習論(Situated Learning)で言う「正統的周辺参加」と整合する。ジーン・レイヴとエティエンヌ・ウェンガーが提唱した概念で、新参者は共同体の周辺的な役割から始め、徐々に中心的な役割に移行することで学ぶ。経験者のサブとして参加することは、この周辺参加の実践例と言える。
参考文献
- March, J. G. (1991). Exploration and Exploitation in Organizational Learning. Organization Science, 2(1), 71-87.
- レイヴ, J., & ウェンガー, E. 『状況に埋め込まれた学習——正統的周辺参加』