自分が一番できると思っていた
入社したての頃、自分が一番できると思っていた。
技術力には自信があった。あまり周りには出さないようにしていたつもりだったが、もしかしたら態度でわかっていたかもしれない。
時間が経つにつれて、自分のできないことが色々と見えてきた。周りの人には、知識の幅広さや経験に裏打ちされたものがあった。自分が見ていたのは、ごく狭い範囲の技術力だけだった。
ダニング=クルーガー効果
心理学者のデイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーは、能力が低い人ほど自分の能力を過大評価する傾向があることを示した。これがダニング=クルーガー効果だ。
原因は、能力が低い段階では「自分に何が足りないか」を判断する能力自体が足りないことにある。全体像が見えていないから、自分がどの位置にいるかがわからない。知らないことが多いほど、知らないこと自体に気づけない。
逆に、能力が上がると自分の限界が見えてくる。知れば知るほど、知らないことの広さがわかる。自信は下がるが、判断の精度は上がっている。
視野が狭いことは悪いことではない
振り返ると、入社したての自分は確かに視野が狭かった。でも、視野が狭いこと自体は悪いことではないと思う。
狭い範囲でも「自分はできる」と思えるからこそ、積極的に仕事に取り組める。自信がなければ動けない。根拠のない自信でも、行動の原動力になる。問題は、その自信のまま視野が広がらないことだ。
視野の広さはすぐには身につかない。経験を通じて少しずつ広がるものだ。だから、視野が狭い段階にいる人に「もっと広く見ろ」と言っても、あまり意味がない。見えていないものは見えない。
いい上司がしてくれたこと
自分は、いい上司に恵まれたと思っている。
その上司は、「こういう考え方もある」と別の視点を見せてくれた。自分の考えを否定するのではなく、まず理解してくれた。そのうえで、経験上こういうところが問題になる、と具体的に指摘してくれた。
これが大きかった。「お前は視野が狭い」と言われていたら、結局どうしていいかわからなかったと思う。視野を広げろと言われても、具体的に何をすればいいのかわからない。でも、「こういう考え方もある」と別の視点を具体的に見せてもらえたから、自分の視野の外に何があるかがわかった。
あの人だったら何と言うか
今、自分が上司の立場になって、視野が狭い部下と向き合うことがある。
意識しているのは、してもらったことと同じことをしようとすることだ。部下の考えをまず理解する。そのうえで、別の視点を見せる。「それは違う」ではなく「こういう考え方もある」と伝える。
迷ったときは、あの上司のシミュレーションをしてみることがある。あの人だったらこう言うかな、と想像してみる。正解かどうかはわからない。でも、自分だけの判断よりは、ましな判断になっている気がする。
聞いた話だが、あえて失敗させるという上司もいるらしい。影響が小さいテーマで、あえて本人のやり方でやらせて、自分で気づかせる。指摘するより、体験から学ばせる方が深く刺さるということだろう。
ただ、部下のタイプによって使い分けるべきだと思う。体験しないと腹落ちしない人もいれば、説明すればある程度わかる人もいる。全員に同じやり方をする必要はない。
どのやり方が正解かはわからない。でも、一つだけ確かなことがある。視野が狭い部下に必要なのは、否定ではなく、別の景色を見せることだ。
かつての自分にも、視野が狭い時期があったはずだ。
そのとき、誰かが別の景色を見せてくれたのではないだろうか。
1. 能力が低い段階では、自分に何が足りないかがわからない
知らないことが多いほど、知らないこと自体に気づけない。視野が狭いこと自体は悪くない。問題は、視野が広がらないまま留まること。視野は経験を通じて少しずつ広がる。
2. 否定ではなく、別の景色を見せる
「視野が狭い」と言っても、どうしていいかわからない。部下の考えをまず理解し、そのうえで別の視点を具体的に提示する。部下のタイプによって、説明で伝えるか体験させるかを使い分ける。
もう少し深く知りたい人へ
ダニング=クルーガー効果は、1999年にコーネル大学のデイヴィッド・ダニングとジャスティン・クルーガーが発表した論文で示された。彼らは、文法、論理的推論、ユーモアのテストを行い、成績が下位の人ほど自分の成績を過大評価することを示した。下位25%の参加者は、自分の成績を平均以上だと評価していた。
この効果は「メタ認知の欠如」として説明される。メタ認知とは「自分の認知を認知する能力」、つまり「自分が何を知っていて何を知らないかを判断する能力」だ。この能力が低いと、自分のパフォーマンスを正確に評価できない。皮肉なことに、パフォーマンスを正確に評価する能力は、パフォーマンスそのものと同じスキルに依存している。
この考え方には古い起源がある。ソクラテスの「無知の知」だ。自分が知らないことを知っている、という認識が知恵の出発点だとソクラテスは説いた。ダニング=クルーガー効果は、この古代の洞察を現代の心理学で裏付けたものと言える。
本文で触れた「視野が狭いことは悪くない」という考え方は、学習理論の文脈でも支持される。心理学者のアルバート・バンデューラが提唱した「自己効力感」は、「自分にはできる」という信念が行動や学習に正の影響を与えることを示している。ダニング=クルーガー効果による過大評価は、ある意味で初心者に必要な自己効力感を提供している。問題は、その信念が現実とのフィードバックを通じて修正されないまま固定化することだ。
また、本文で触れた「あえて失敗させる」アプローチは、経験学習理論のデイヴィッド・コルブの考え方と整合する。コルブは、学習は「具体的経験→内省的観察→抽象的概念化→能動的実験」のサイクルで進むと提唱した。他人から指摘されるだけでは「抽象的概念化」にとどまるが、自分で失敗を経験すると「具体的経験」から学習サイクルが始まるため、学びが深くなる。
参考文献
- Kruger, J., & Dunning, D. (1999). Unskilled and Unaware of It: How Difficulties in Recognizing One’s Own Incompetence Lead to Inflated Self-Assessments. Journal of Personality and Social Psychology, 77(6), 1121-1134.
- Bandura, A. (1977). Self-Efficacy: Toward a Unifying Theory of Behavioral Change. Psychological Review, 84(2), 191-215.