導入したSaaS、使われていますか
業務効率化のためにSaaSを導入した。初期費用をかけて、設定して、説明会も開いた。でも、気づけば現場は前と同じやり方で仕事をしている——。
こういう経験は珍しくないと思う。ツールは入れた。でも定着しない。そして、こう思う。
「まだ効果が出ていないだけかもしれない」 「ここで解約したら、初期投資が無駄になる」
そうやって、月額費用を払い続ける。本当にそれでいいのだろうか。
サンクコストの誤謬
この「ここまでやったから」という心理には名前がある。サンクコストの誤謬 (埋没費用の誤謬) だ。
すでに使った時間やお金は、もう取り戻せない。だから本来、意思決定の判断材料にすべきではない。「これまでいくら使ったか」ではなく、「これから使い続けて、どれだけのリターンがあるか」で判断すべきだ。
理屈ではわかる。でも、実際にその判断ができるかというと、難しい。私自身、この罠にはまった経験がある。
プロジェクト管理SaaSの失敗
プロジェクト管理のSaaSを導入したことがある。目的は業務効率化だった。案件の進捗を可視化して、チーム全体で共有できるようにしたい。そう考えて導入を決めた。
初期設定にはそれなりの工数をかけた。プロジェクトのテンプレートを作り、入力ルールを決め、使い方の説明会も開いた。
ところが、現場はなかなか使わない。みんな、自分がカスタマイズしたExcelを使い続けていた。慣れたやり方があるのだ。
何が起きたかというと、「手元のExcelで管理して、SaaSに転記する」という運用になった。本末転倒だ。業務効率化のために導入したツールが、転記という追加作業を生んでいた。
数ヶ月経っても状況は変わらなかった。肝心の進捗管理は、結局Excelで行われていた。SaaSは「転記先」でしかなかった。
「まだ効果が出ていないだけ」という言い訳
この時点で、冷静に考えれば選択肢はあった。解約する、別のツールに乗り換える、あるいはExcel運用を正式なやり方として認める。
でも、そうはならなかった。
「まだ効果が出ていないだけかもしれない」「もう少し周知すれば使われるようになるはず」。そう言って、判断を先延ばしにした。
本音を言えば、初期費用がもったいなかった。導入を決めた判断が間違っていたと認めたくなかった。それに、ツールを選んだのは部内の別の人だ。「やっぱりやめます」とは言い出しにくい。その人の判断を否定することになる。
転機は、選んだ人に現状を正直に伝えたことだった。「実は転記作業が発生していて、現場の負担になっている」と。
意外だったのは、その人の反応だ。すんなり理解を示してくれた。聞けば、現場の状況がそこまで悪いとは把握していなかったという。悪い情報が上がっていなかったのだ。
結局、解約することになった。現場に残ったのは、ある程度標準化されたExcelだった。
振り返ると、「言い出しにくい」と思っていたのはこちらの勝手な忖度だった。相手は判断材料がなかっただけだ。もっと早く共有していれば、もっと早くやめられた。
なぜ止められなかったのか
振り返ると、止められなかった理由は明確だ。
「まだ」という言葉の罠
「まだ効果が出ていない」は、見方を変えれば「効果が出ていない」ということだ。でも「まだ」をつけると、未来への期待が生まれる。その期待を根拠に、判断を先延ばしにしてしまう。
問題は、「いつまで待てば効果が出るのか」を誰も定義していなかったことだ。基準がないから、「まだ」がいつまでも続く。
悪い情報が上がらない
選んだ人に、現場の状況が正確に伝わっていなかった。「転記作業が発生している」「実際はExcelで管理している」という情報が届いていない。
なぜか。こちらが「言い出しにくい」と思って黙っていたからだ。選んだ人の判断を否定することになる。そう思って遠慮していた。
でも結果的に、判断材料がないまま月額費用を払い続けることになった。遠慮は誰のためにもならなかった。
導入時に「撤退条件」を決めておく
この経験から学んだことがある。撤退の判断は、使い始めてからでは遅い。導入時に「こうなったらやめる」という条件を決めておくべきだった。
たとえば、こういう条件だ。
- 「3ヶ月後にアクティブユーザーが○%未満なら、継続を再検討する」
- 「導入から半年で、従来のExcel運用より工数が減っていなければ見直す」
- 「現場へのヒアリングで『使いにくい』が○件を超えたら、別の方法を検討する」
重要なのは、これを「導入前」に決めて、関係者と共有しておくことだ。後から決めようとすると、すでにサンクコストの心理が働いている。冷静な判断ができない。
月曜から試せるヒント
1. 導入時に「撤退条件」を1つ決める
新しいツールや施策を始めるとき、「この条件を満たさなかったら見直す」というトリガーを1つ設定しておく。期限か数字を入れる。「うまくいかなかったら」では曖昧すぎて機能しない。
2. 定期的に「今から選ぶとしても、これを使うか?」と棚卸しする
すでに導入済みのツールや施策について、四半期に一度でいい、過去の投資をゼロにして考えてみる。今の状況を知った上で、ゼロから選ぶとしても同じ選択をするか? 答えがNoなら、続けている理由は「ここまでやったから」だけかもしれない。
棚卸しのタイミングを決めておくことで、「なんとなく続ける」を防げる。
SaaSだけの話ではない
これはSaaSに限った話ではない。
ずっと続けている週次レポート。誰が読んでいるかわからないが、「続けてきたから」でやめられない。惰性で続いている定例会議。本当に必要か怪しいが、「なくすと言い出しにくい」。
「続けてきたから」「やめると言い出しにくい」。そういう理由で続いているものは、意外と多い。
あなたの組織に、「まだ効果が出ていないだけ」と言い続けているものはないだろうか。
そして、その現状は、決めた人にちゃんと届いているだろうか。
もう少し深く知りたい人へ
サンクコストの誤謬は、行動経済学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トベルスキーが提唱したプロスペクト理論の中で説明される現象だ。人は利得よりも損失に強く反応する (損失回避) 。すでに投資した時間やお金を「損失」として認識するため、それを確定させる「解約」や「中止」という選択を避けようとする。
本文で触れた「まだ効果が出ていないだけ」という心理は、「コミットメントのエスカレーション」とも関係している。一度始めたことに対して、うまくいっていなくても追加投資を続けてしまう傾向だ。特に、自分が意思決定に関与した場合、この傾向は強まる。「自分の判断は間違っていなかった」と証明したい心理が働くからだ。
また、本文で触れた「悪い情報が上がらない」という現象は、組織行動論では「MUM効果 (Mum about Undesirable Messages) 」として知られている。人は悪い知らせを伝えることを避ける傾向がある。相手を傷つけたくない、関係を悪くしたくない、という心理が働くからだ。結果として、意思決定者に正確な情報が届かず、判断が遅れる。本文の「勝手な忖度」は、このメカニズムの典型例と言える。
対策として有効なのが、本文で紹介した「事前の撤退条件設定」だ。これは、行動経済学で言う「プリコミットメント」に相当する。将来の自分が非合理な判断をすることを見越して、あらかじめルールを決めておく手法である。
ArkesとBlumerの実験では、被験者に「すでに投資した金額」を提示すると、その金額が大きいほど、見込みの薄いプロジェクトへの追加投資を支持する傾向が見られた。この知見は金銭的な投資に限らない。SaaS導入のように、設定や周知に工数をかけた場合も、「ここまで手間をかけたのだから」という心理が働き、同じ罠にはまりやすい。
参考文献
- ダニエル・カーネマン 『ファスト&スロー』
- Arkes, H. R., & Blumer, C. (1985). The Psychology of Sunk Cost. Organizational Behavior and Human Decision Processes, 35(1), 124-140.
- Staw, B. M. (1976). Knee-Deep in the Big Muddy: A Study of Escalating Commitment to a Chosen Course of Action. Organizational Behavior and Human Performance, 16(1), 27-44.
- Rosen, S., & Tesser, A. (1970). On Reluctance to Communicate Undesirable Information: The MUM Effect. Sociometry, 33(3), 253-263.